八高線列車衝突事故の車輪

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 本日は東京都昭島市、多摩サイクリングロードと八高線の多摩川橋梁が交差する場所近くにある車輪のモニュメントをご紹介したいと思います。こちらの車輪は多くの犠牲者を出した八高線列車衝突事故の列車に使われていた車輪と言われています。

 この八高線列車衝突事故は戦後間もない昭和20年8月24日に発生しました。

 事故の解説は隣にあった案内板に委ねようかと思います。

 こちらに記載されていない事故原因を簡単に述べると当時は悪天候による通信不良で、本来の通票閉塞が使用出来ませんでした。そこで「1閉塞に1名の指導員を乗せた列車のみ運行できる」という指導式で運転をしようと考えました。

 これなら通票と考えは同じで事故は起こらないのですが、例外的に小宮駅から指導員を乗せていない列車を走らせてしまいました。そこへ指導員を乗せた拝島からの列車が来て正面衝突となりました。

 例外は時として事故原因になりやすく、鉄道史上では大小様々な事故があるのも事実です。そんな教訓から現在では殆ど例外が許されなくなり、例外的な運用を行うにも必ず複数部署の承認を得るような形になっています。

 これが事故当時の客車の車輪と言われています。ここで「車輪です」と言い切らなかったのは訳があり、この車輪が多摩川の中州から発見され引き上げられたのは2001年です。

 「ここに車輪があるのはあの時の事故以外考えられない」としてこの遊歩道脇に事故を後世に伝える遺構として並べられましたが、そういういきさつもあり100%か?と聞かれると99.9%な訳です。

 プレート車輪とスポーク車輪が各一です。

 恐らく被災した車両は戦前~戦時設計の古い車両だと思います。手前のスポーク車輪は「なるほどな」と思うのですが、奥にプレート車輪があるのには少し驚きでした。昭和26年から生産が始まったスハ43系のTR40もスポーク車輪でした。

 もっともこの辺の知識は古すぎて私も詳しくは分かりませんので、この時代でもプレート車輪を使っている車両があったということだと思います。色々調べてみると蒸気機関車の先台車でD52やC57などが少し早くからプレート車輪を使っているみたいです。

 そうこうしているうちに下り列車が拝島を目指して走っていきました。八高線の高麗川以南は現在、蒸気機関車から気動車の時代を経てワンマンの電車が走っています。また閉塞方式も色灯信号機による特殊自動閉塞になり、ATSもATS-P型が搭載されて、安全性は格段に向上されています。

住所 〒196-0024 東京都昭島市宮沢町3丁目14−10
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