青函連絡船の制服(函館市青函連絡船記念館摩周丸)

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 明日3月13日で青函連絡船が運航を終えてから36年になります。今日は函館で保存されている摩周丸に展示されている制服を眺めながら当時の乗組員たちの話をしたいと思います。

 まず、右側の2着が終航時の制服です。金線の入っているものが士官のもの(写真は船長のもの)、金線の入っていないものは部員の制服です。士官の中でもサロン会議室に顔を揃える金線4本の船長、機関長、金線3本の一等航海士、一等機関士、通信長、事務長はサロン六職と呼ばれ、また一段高い地位とされていました。

 ついでで書くとサロン会議室はこの展示スペース奥の改修後の元サロンの一角にありました。奥にある二つの窓は現在大きく改修された、前方にある窓です。こちらの写真は青森港に係留されている八甲田丸のものです。

 そしてこう書くと単純に「士官>部員」と思われてしまうかもしれませんが、必ずしもそうではないことをここで少し補足しておきたいと思います。

 確かに海技免状という国家資格や指揮命令系統ではそうなるのですが、航海掛(操舵手)が8000トンもの船を水流だけで、慣性まで考慮してピッタリと1度も狂わず船長の指示した角度に変針するのはまさに職人技でした。

 また甲板諸機掛が着岸時に岸壁に投げるサンドレッド(重りの付いたロープ)の正確さも簡単に身につくものでは無かったでしょう。誰もが持ち場が違うだけで欠くことが出来ない存在だったと言えると思います。

 また青函連絡船は法律上沿岸区域を航行する船舶でしたので、海技免状が3級以上の船長、4級以上の一等航海士の乗船が義務づけられていました。しかし国鉄の内部規定はさらに厳しく1級保持者でないと船長にはなれなかったと聞いたことがあります。

 青函連絡船が北海道と本州を結ぶ重要な航路であったことを伺い知ることが出来るエピソードですし、気象の厳しい津軽海峡だったからという理由もあるかもしれません。

 そしてその横の水色の制服は「マリンガール」の制服です。夏の間乗船をして観光案内や一緒に記念撮影に応じてくれる、連絡船の旅をより楽しくしてくれる存在でした。「ガール」というネーミングにも時代を感じます。

 その横は給仕服と呼ばれる船客掛(ボーイ)の制服です。この制服の頃は連絡船でも列車でもお客様にサービスをしてその見返りにチップを受け取る風習がありました。海外では未だチップの制度が当たり前に残っている国もありますが、国鉄では昭和39年の東京オリンピック頃を契機にチップを受け取らない流れになり、この制服も消えていったようです。

 最後左端は私も知らない戦前の乗組員の制服(船長)です。

 36年経った今もこの様に当時の制服が展示されているおかげで、当時の話を色々とすることが出来ます。

 また摩周丸では運が良ければ船橋に当時の乗組員の方が制服を着用してガイドとしていらっしゃる場合があります。青函連絡船の乗組員は函館で交替をしていましたので、函館に家がある方が多くいらっしゃいます。

 元乗組員に出会える確率は八甲田丸より、摩周丸の方が高いです。(しかし八甲田丸を守る会会員の私としては八甲田丸も見に行って欲しい。)

 もし元乗組員と出会えたら色々質問をしてみると、当時の面白い話が聞けるかもしれません。


青函連絡船物語

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鉄道連絡船細見

鉄道連絡船のいた20世紀
住所 〒040-0063 北海道函館市若松町12番地先
ホームページ 函館市青函連絡船記念館摩周丸
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